中国で買春を疑われた若者の死に国民の怒りが爆発陳言

發佈時間 : 2016-5-26 23:28:44
— [在北京ジャーナリスト]
この5月に起きた事件に中国の全国民の注目が集まっている。買春を疑われた若者が捜査中に死亡したというものだ。この悲劇の背景にある本当の悲劇は、当局の人権無視の行動を防ぐ、法や制度の改革に結び付かないということにある。
行き過ぎと思われる逮捕劇に、民衆から疑問の声が上がるも、警察側は始めから終わりまで正面から回答しようとせず、さらなる民衆の怒りを誘っている

5月7日、中国で全国民が注目するある事件が発生した。

中国人民大学の修士課程を卒業した雷洋は、環境保護業務に携わる29歳の普通の青年であり、生まれてひと月にも満たない赤ちゃんのパパでもあった。警察の話によれば、空港に人を迎えに行った際に「買春」の容疑で逮捕された彼は、車から飛び降りて逃げようとし、その後に「体調不良」で突然死亡したという。この事件は、今年に入ってもっとも世論を揺り動かす出来事となった。

雷洋事件で民衆の怒りが爆発

警察の発表によると、5月7日夜9時頃、北京市郊外の昌平区東小口派出所の副所長と4人の警官が、売春に関与していると噂される「足ツボマッサージ店」付近を張り込んでいたところ、ちょうど足ツボマッサージを終えて出てきた雷洋が「そわそわした様子で」西へと歩き去っていこうとするところを目にした。警察は身分を明かした後、「買春に関係した容疑」で雷洋を拘束しようとした際、彼は激しく抵抗した。彼は逃亡も試みたが、派出所に送られる途中で心臓病により突然死亡したという。

のちのメディアの報道によると、周囲の目撃者の話では、制服を着用していない三人の男が「助けて」と叫ぶ若者を、後ろ手に地面に叩き付け、暴れる彼を一台の黒い車に押し込めたが、10分ほど後に再び彼はその黒い車から2人の男によってマイクロバスに「拉致された」という。

この黒い車の中での十数分間に何が起きたのか、それは誰にもわからないし、警察側もずっと説明してはこなかった。事件が発生してからわずか2日で大きな話題となり、社会の高い注目を集めるようになった。しかし、人々が得ることができたのは警察、メディア、家族などからの断片化した情報にすぎず、当時の真相を復元することはどうしてもできなかった。

家族やメディア、社会が警察側に拘束時の映像資料を要求したが、警察側は「撮影機器が暴れた雷洋によって壊されてしまい、地域に備え付けられた監視カメラも壊れていた」という。あるメディアはそれに対し、「警察の業務用撮影機器は、3メートルもの深さの穴の中に放り投げても壊れないのではなかったのか」と反駁し、警察はそれに対し、「私服警官が使っているのは携帯電話の撮影機能だった」と語った。

ある人はインターネットで「北京が何億元も費やして構築したはずの監視ネットワークシステムはどうしたのか。警察が犯人を逮捕した際にはさんざんひけらかしていた、この都市のどんな場所にも設置されているという監視カメラは、人々から疑いを問いただされるような事態が起こると、たちまち壊れてしまうのはなぜか」という疑問を呈した。

5月12日午後、一貫して慎重な報道で知られてきた『財新網』が、「雷洋事件における昌平警察の2通の通達の比較に見られる問題」という文章を掲載し、「警察の言い分には自己矛盾あるいは不合理なところが多々ある」との疑問を提起したが、警察側は始めから終わりまで正面から回答しようとせず、さらなる民衆の怒りを誘っている。

何はともあれ、警察が提供する断片的な情報のために、インターネット上では、昌平警察と民衆の間にはすでに「相互不信」が生まれている。人々が何かに疑問を呈せば、警察が奥歯に物の挟まったような言い方で説明する。その繰り返しに、人々は警察側が何を言っても何も信じないという状態に陥っている。

世論コントロールにしか関心がない中国政府

最近の社会・公衆事件の発展の道筋を振り返ってみると、公的機関の「チューブ押し出し(圧力をかけられてしぶしぶ小出しに白状する)式」の回答が習慣化しており、それはつまり主動的に社会に誠意をもって接することを目的としたものではなく、世論が高まったという判断に基づいてのものである。

言い換えれば、公的機関が大々的に処理するにしてもこっそり処理するにしても、本格的に調査グループを置いて処理するにしても、厳しく批判するにしても、それらの背後にある目的は主に世論コントロールであり、真実・真相がどのようなものであるか、類似する事件の再発を防ぎ、被害者の権利をいかにして守るのかという意識からではない。

アメリカの著名な中国研究者であるジョン・キング・フェアバンクが『偉大なる中国革命』という本の中で、以下のように皮肉っぽく記している。

「代議制政府と異なるのは、(中国の)権力掌握者は上級官僚に責任を持つだけでよく、選挙民に対して責任を持つ必要がないことで、中央からいえば、彼らは官僚を励ましたり制御したりするだけでよく、下級官僚は中央の『皇帝の大いなるお恵み』を代表し、民衆蜂起が起こるようなことを刺激しなければそれでよいのである」

中国のこの官僚ロジックに照らしてみれば、公的機関がこの種の事件を処理する際の基本的な出発点とは、民衆をなだめ、世論をコントロールすることにあり、人々に事実や真相を知らせることではない。なぜなら、このような官僚システムの中では、真相は必ずしも重要ではなく、重要なのは民衆の怒りを鎮めることなのである。これがもたらした結果として、個人の権利が損なわれたときに、中国社会が制度的な改革を促されることはごくまれであるということだ。

5月11日午後、中国人民大学は多くの同窓生に公開書簡を送り、雷洋の死についての独立した公正な調査を呼びかけた。「中国人民大学88期同窓生有志による雷洋の事故死に対する声明」と名付けられたこの公開書簡の中で、人民大学の同窓生有志は、その最後を次のように締めくくっている。

「2003年の孫志剛事件以後、胡錦濤・温家宝の新政府によってただちに収容条例が廃止され、人々は臨時居住証明を携帯していなければいつでも公安機関に収容されるという恐怖から逃れることができた。また、2013年に習近平主席が労働再教育制度の廃止を主導したことによって、人民は裁判なくして公安機関により長くは2年にわたって人身の自由を強制的にはく奪されるという恐怖から逃れることができた。だが、そうはいうものの……」

この公開書簡で例として挙げられた「孫志剛事件」というのは、孫志剛青年が暫住証(短期滞留者身分証)を携帯していないことのみを理由に拘束され、暴行により死に至らしめられた事件である。これを機に収容条例という「悪法」が撤廃されたのは事実だ。しかし、同じような悲劇が繰り返されないような新制度を生み出す助けにはなっていない。

善良な社会においては、制度と法律に過ちがあれば常に正していくのはもちろんだが、より重要なのは、無実の者がこれ以上被害を受けることのないように、新たな法律・制度をつくりあげなければならないということである。

現在も論議の真っただ中にある「雷洋の死」は、社会民衆と警察側にどんな見解の相違があろうとも、最後には警察側がいう「正義」によって終わりを告げるだろう。同時に、事件に関わった警察を処罰するかどうか、そしてその懲罰の軽重は、警察自身の行為とは無関係で、おそらくは民衆の声の大きさに関わってくることになるだろう。

今日では、インターネットと個人メディアの出現により、「一般の被害者」が声をあげるルートがより多く提供されるようになった。しかし、どの事件もインターネット経由で一時的に爆発的な注目を浴び、人々の怒りが噴出したとしても、関係部門は一貫して事実に応じて処理を行うだけで終わる。似たような被害者を二度とつくらないような制度作りの上から考慮されることはまれである。こうして同様の悲劇は繰り返されていくのである。

「雷洋事件」は、中国社会の典型的な「持病」を暴露するものとなったが、その悲劇を発生させた「悪制度」を根本から取り除けないのであれば、それこそまさしく悲劇の連鎖といえる。

制度改革の推進が最も大切

では、制度改革にはどのような視点が必要となるのだろうか。

まず中国社会では往々にして個人の権利をおろそかにしがちであり、これが、社会が常に騒ぎ立て、悲劇が絶えず起きる重要な原因となっている。現在でも、いまだ多くの人が警察と同様、雷洋が「買春」していたかどうかに議論の重点を置いている。そのため、関係法律・制度の改革には、死者を尊重し、生者をいたわり、人々を保護するという観点が必要となる。

さらに、多くの弁護士が提起しているように、逮捕状などの法律的手段がないままに、私服警官が好き勝手に「あやしい」通行人を逮捕することをいかに防ぐか。そして警察が「先に処罰して人を死なせたことを、後から調査し、証拠を取り、事件の性質を規定する」ことをいかに防止するかも重要だ。

例えば、雷洋事件では、警察は足ツボマッサージ関係者全員を逮捕し、証言の同一性をコントロールしたという嫌疑がある。こうした違法の可能性のある行為をいかに禁止するかが大切である。さらに大切なこととして、「今後警察が業務執行中に暴力をふるって人を傷つける事件が起きたとき、検察機関の介入調査の公正性をいかに保つか」ということが挙げられる。

メディアに関しては、いかに記者を律し、その職業モラルを遵守させ、被疑者への「決め付け」取材を行わせないかなどを討議すべきである。例えば「北京テレビ」は、「雷洋にサービスを提供した」と認めた女性マッサージ師の取材に際し、あからさまな誘導的な質問を行い、いかにも性的サービスがあったかのよう答えを引き出そうとしていた。マスコミとしては恥ずべきやり方である。

雷洋事件は、多くの中国の都市にいる中産階級の「敏感になっている部分」に触れるもので、非常に象徴的な事件となる可能性がある。みんなが一斉に立ち上がらなければ、法治という段階に、中国はいつまでたっても到達することはできない。