真実を語る雑誌『炎黄春秋』の死 改革派中国誌が選んだ「玉砕」という道 – 城山英巳

發佈時間 : 2016-7-30 22:25:26

中国で体制内改革派の言論の砦として影響力を誇った月刊誌「炎黄春秋」の杜導正社長は7月17日、「停刊声明」を発表し、同誌を廃刊にする道を選んだ。同誌を主管する政府(文化省)系の「中国芸術研究院」が、一方的に社長や編集長を送り込み、人事権を剥奪、「基本的な編集・出版の条件を喪失した」(声明)のが原因だ。解任された杜氏は、「何もしないで生きながらえるより玉砕を選ぶ」と語り、同誌の栄光を残したまま自死する決意を示した。習近平指導部が、「真実を語る雑誌」として創刊以来25年間にわたり改革派から高い評価を得た炎黄春秋に対して下した「死刑宣告」ー。中国の改革派知識人はこう受け止めた。改革派知識人たちが「一つの時代の終わり」をどう迎え、独裁を強める権力とどう立ち向かっていくのか。習近平体制の下で理性をもって中国の前進を訴える「良識」はどんどん消されつつある。

歴史の真相と政治体制改革

『炎黄春秋』

1991年に創刊された炎黄春秋は、その独自の編集方針と、当局との特殊な関係のため、「中国において唯一の雑誌」と称され、発行部数も19万部に及んだ。学術誌としては異例の部数だ。筆者は4月、97年に同誌に入り、長く編集長として炎黄春秋の黄金期を築いた歴史学者・呉思氏(現・天則経済研究所理事長)に話を聞いた。

「炎黄春秋は、体制内の穏健な改革派の声です。我々の立場は、決して体制の反対者ではない。体制内で改革や改良を推し進め、その手法というのは、歴史が社会にもたらした誤りを改め、専制的な政治体制が引き起こした災難や困難を見つめることです。歴史の経験を総括し、民主化への道を進むということです」

炎黄春秋がこだわったテーマは、①反右派闘争、大躍進、文化大革命など、中国共産党体制の誤りがもたらした歴史の内幕と真相を明らかにする、②政治体制改革や憲政など中国が進むべき道を提示する、という点だ。

同誌では一貫して政治体制改革議論が盛んだった1980年代、最高指導部にいた胡耀邦、趙紫陽という開明的な両元共産党総書記に近い老幹部が中心メンバーとなった。93歳の杜導正・元国家新聞出版総署長(閣僚級)が社長に就任し、99歳の李鋭氏(毛沢東元秘書)、93歳の何方氏(元社会科学院日本研究所長)ら長老のほか、胡耀邦の長男・胡徳平氏ら「紅二代」(高級幹部子弟)が同誌を支えてきた。

杜氏は今回の停刊声明を受け、海外メディアのインタビューで「91年の創刊以降、共産党当局と16回にわたり大きな衝突があった」と明かした。しかし同誌は長老らの後ろ盾があり、何度も共産党中央宣伝部と摩擦を起こしても、そのたびに妥協しながら改革志向の論調を守り続けた。習指導部で宣伝・イデオロギーを統括する劉雲山政治局常務委員にとって杜氏は元上司に当たり、逆らえないという状況もあった。

「改革・開放」と共に歩む

炎黄春秋が創刊された91年以降、最高権力者・鄧小平は89年の天安門事件による危機を乗り切るために改革・開放の大号令を掛け、総書記に抜擢された江沢民も市場経済を推し進めた。江沢民時代は今から考えれば、メディア界にとって「良き時代だった」と、改革派知識人は口をそろえる。

炎黄春秋はまさに「改革・開放の産物であり、改革・開放は、炎黄春秋の生存空間を切り開き、我々も改革・開放のため全力で助力した」(楊継縄・元副社長)。創刊10年の2001年2月には、習近平氏の父親で開明的な指導者だった習仲勲元副首相が同誌のために筆を取り、「《炎黄春秋》弁得不錯」(『炎黄春秋』の発行はいいことだ)と記した。

中国ではメディア運営に主管機関が必要になる。炎黄春秋の場合、中央軍事委員会委員、国防次官だった蕭克・上将が執行会長を務めた「中華炎黄文化研究会」という学術民間団体が主管機関となり、蕭氏が同誌を強く支持したため党中央宣伝部なども人事・財務面に介入せず、一定の独立を保てた。国家から補助や雑誌の買い上げが一切なかったことも独立性を維持するのに役立った。

しかし胡錦濤・温家宝時代に入ると、党中央宣伝部による管理が強まった。05年には、胡耀邦元総書記がかつて毛沢東を批判したことを回想した胡啓立・元政治局常務委員の文章、07年には天安門事件で失脚した趙紫陽を称賛する田紀雲元副首相の文章を掲載し、波紋を呼んだ。炎黄春秋は、規制を強めた当局との妥協も余儀なくされ、解放軍の国軍化、三権分立、六・四(天安門事件)、国家指導者・家族の問題、多党制、法輪功、少数民族・宗教問題、憲政(以前は劉暁波氏=獄中のノーベル平和賞受賞者=の問題)の八つテーマには触れないと当局側と申し合わせた(洪振快「前任執行主編親述:《炎黄春秋》之死」『端傳媒』2016年7月17日)。

12年11月に習近平が総書記に就任すると、炎黄春秋に対する統制は一気に加速した。炎黄春秋副社長・編集長を務めた楊継縄氏は、古巣の国営通信・新華社からの辞任要求が強まり、15年7月に辞任したが、その際に同誌編集幹部らに宛てた「告別の手紙」が話題になった。楊氏は、手紙とともに監督当局・国家新聞出版ラジオ映画テレビ総局への陳述を記したが、陳述によると、同総局は同年4月、1〜4月号に掲載した86本の文章のうち37本については事前検閲を受けるべきだとして「規則違反」を是正するよう求める警告書を送ってきたという。これに対して楊氏は「我々は長年、毎号2本の文章を事前報告したが、14年はそのうち9割がボツになったり、返答もなく無視されたりした」ことを明らかにした。

高まった共産党当局からの圧力

炎黄春秋は毎年春節(旧正月)明けに、北京で「新春聯誼会」という懇談会を開催している。70代、80代、90代の老幹部とともに、中堅改革派知識人ら200人以上が集まる。このうち選ばれた20人ほどが登壇し、10分ほどの挨拶を行い、昼食を挟んでテーブルごとに熱い議論になるのが恒例だ。同誌13年4月号は、この年の2月末に開かれた新春聯誼会で登壇した老幹部や改革派知識人の発言を掲載。政治体制改革、言論の自由、憲政、司法の独立などを求めた内容に対して「最高指導部・共産党政治局常務委員会で炎黄春秋への不満が出た」(改革派学者)。

2008年に同誌を支えた蕭克氏が死去すると、杜導正氏に対しても高齢を理由に社長を交代するよう求める当局の要求は強まった。

ついに、共産党中央宣伝部は14年9月、炎黄春秋に対して主管機関を「中華炎黄文化研究会」から政府系の「中国芸術研究院」に切り替えるよう圧力を強めた。杜氏は雑誌存続のため、習近平に影響力を持つ胡徳平氏を自分に代わる社長に据える計画も立てたが、実現しなかった。15年の新春聯誼会は当局の圧力で開催されなかった。

93歳社長が発表した「停刊声明」

14年11月には編集長・呉思氏が炎黄春秋を去った。胡徳平氏の社長招聘計画について同誌の最高意思決定機関・社内委員会での討議を経ずに、杜氏ら長老が決定したことに疑問を感じたからだった。

15年7月には楊継縄氏も去り、90歳を超えた杜氏が社長・編集長として炎黄春秋を支え、これまでの論調を守るよう踏ん張ってきた。しかし16年7月12日、杜氏が高血圧で入院しているタイミングを狙い、中国芸術研究院は、社長、副社長、編集長を入れ替える人事を一方的に発表した。新社長には賈磊磊・芸術研究院副院長が就いた。

「炎黄春秋」杜導正社長が出した「停刊声明」

杜氏は17日に発表した「停刊声明」で「憲法35条に定められた公民の出版の自由に対する重大な侵害であり、人事や編集、財務の自主権を定めた中国芸術研究院と炎黄春秋の合意書に違反したものだ」と批判した。また15日には中国芸術研究院から派遣された人員が炎黄春秋の事務所を占領し、奪い取った同誌公式ウェブサイトのパスワードを変えたという。

前述したように同誌の人事や財務など重大事項は、社内委員会の討論で決められ、原稿は編集部の議論で決定することになっている。今回の事態を受け、炎黄春秋は社内委員会で協議し、17日に同誌を廃刊にすると決定した。その上で中国芸術研究院が「炎黄春秋」を引き続き発行する構えであることから、「今後、いかなる人物が『炎黄春秋』の名義で出版物を発行したしても我々とは無関係だ」と強調した。

杜氏はいかなる人物か。14歳で共産党に入党し、抗日戦争に参加した。戦後、記者になると決め、新華社に入った。1957年の反右派闘争では「右派」と認定され、その後、「広東の小彭徳懐(大躍進を批判して失脚した元国防相)」と言われて打倒された。文革が終わり、改革・開放が始まった78年には新華社国内部主任として、鄧小平・胡耀邦による「実践は真理を検証する唯一の基準」論争で論陣を張った。

筆者は、14年2月に開かれた炎黄春秋新春聯誼会に参加し、杜氏がこう挨拶したのを覚えている。

「改革・開放を堅持するためにはいろいろな因習やしきたりを打破し、やらなければならないことはやる、という習近平同志の説明は非常に正しく素晴らしいと認識している。(改革・開放への)抵抗は非常に大きく、体制内・体制外の時代遅れの思考と利益集団は客観的に見て改革を阻んでいる」。習近平を「改革派」として期待した発言と受け止められた。

創刊25年で最も横暴な締め付け

杜導正氏は主管機関による炎黄春秋の一方的な接収に対して、ボイス・オブ・アメリカ(VOA)中国語版の取材に「以前(の締め付け)とは異なっている。法を守らず横暴かつ乱暴だ」と憤った。

杜氏はすぐさま、中国芸術研究院による合意書を無視した一方的な措置について朝陽区人民法院(裁判所)に提訴したが、7月27日時点で受理されていない。また北京市西城区文化執法隊は、炎黄春秋の事務所を訪れ、検査も行った。

今回の同誌に対する対応は、中国芸術研究院による判断ではなく、習近平指導部の指示があるのは間違いない。

杜氏は、「ドイチェ・ヴェレ」(「徳国之声」)中国語版のインタビューに、「文革が私に与えた感覚と同じだ」と、その衝撃の大きさを話している。「相手方の態度、方法、言葉遣い、手段はこの25年間で味わったことのないもので、最も厳しく卑劣だ。私は電話で彼らに『我憤怒、我抗議』という6文字を述べた。私は共産党員として受け入れられない」

杜氏はさらに、インタビューでこう続けた。「私は、『炎黄春秋』というのは、全国でこんなに多くのメディアがある中でも最も成功したものだと感じている。広州には(改革的な論調で知られる週刊紙)『南方週末』があり、北京には(現代史の真相暴露を主眼にした雑誌)『百年潮』があった。この両メディアは彼ら(当局)に接収され、変わってしまった。語らなければならない本当の話を言えなくなった。探求しなければならないことも語らなくなった。成り下がった、この二つの新聞・雑誌は何の影響もなくなった。その点で言えば、炎黄春秋は良い役割を果たしてきた。中央の一部指導者同志も肯定・称賛した。だから習仲勲も『炎黄春秋の発行はいいことだ』という八文字を書いてくれたのです」

「体制内」の異論も封じ込める

杜導正氏は開明的な習仲勲を高く評価し、この八文字を同誌を守る後ろ盾にした。炎黄春秋は13年12月号で、1980年代に全国人民代表大会常務副委員長(国会副議長)だった習仲勲が、「今後また、毛主席のような強人が出現したらどうするのか」と懸念し、「党の歴史から見て異論(の弾圧)によってもたらされた(社会の)災禍はとても大きい」と述べ、「異論保護法」の制定を検討したという文章を掲載している。

習仲勲は文革などで毛沢東から政治迫害を受け、8年間近くも独房生活を送った。こうした苦難の経験から、「真実を語る」必要性を痛感し、炎黄春秋を支持した。

しかし習近平は「知識人からの批判を歓迎する」と口では言いながら、自分や共産党体制に対する異論、政治体制改革や憲政に関する提言に耳を傾けるどころか、体制を揺さぶりかねないと決め付けた。就任して早々の13年1月、広東省宣伝当局は「もの言う新聞」として知られた「南方週末」の新年社説に改ざんを命じ、この事件を契機に同紙の締め付けを強め、勇気あった報道姿勢を骨抜きにした。習指導部は同年4月、憲政や民主主義、普遍的価値観、公民社会など語ってはいけない七つの禁句「七不講」を定め、言論統制を強化した。習近平は16年2月には「(官製メディアは)宣伝の陣地であり、党を代弁しなければならない」と忠誠を誓わせた。体制内知識人として中国版ツイッター「微博」で3700万人のフォロワーを誇った「もの言う企業家」任志強氏が習の発言を批判すると、党籍剥奪に続く重い党内観察処分を下した。

任志強の事件は、「体制外」だけでなく、「対制内」でも異論を封じ込めるという習指導部の強い意思を表したものだった。これまで妥協しながら存続を認めてきた炎黄春秋に対して「死刑」を宣告したのは、体制内であろうが、自由な言論空間を許さないという決意を表したものであり、指導部内で言論統制を一段と進めるという何らかの新たなコンセンサスがあったことを伺わせるものだ。

習近平の思想論「『赤・黒・灰』地帯」

炎黄春秋で編集幹部を務めた洪振快氏は、杜氏の停刊声明発表後、すぐに香港のメディア「端傳媒」に寄稿した。洪氏によると、炎黄春秋は、16年5月16日の文化大革命発動50年に合わせ、文革への反省を込めた原稿を多く用意したが、当局によって跳ね返された。このため同年5期の発行は、5月4日の発行期日に間に合わず、10日になってようやく発行される異例の事態になった。洪氏は「自分が炎黄春秋で仕事をしていた間では、こういうこと(発行ずれ込み)は起こらなかった」と語った。

洪氏の見方によると、当局も直接、炎黄春秋を廃刊にすれば政治的問題を引き起こすと認識しており、人事を通じて徐々に内容をコントロールすることが狙いだった。その上で洪氏は「『炎黄春秋』は既に死刑を宣告された。従来の発行方針が生き続ける可能性はなくなった」と言い切った。

共産党理論誌「求是」(2016年第9期)は、習近平が15年12月11日に行った全国党校工作会議での講話を掲載した。この中で習近平はこう語っている。

「私は、『思想世論領域にはだいたい、赤色、黒色、灰色の「三つの地帯」がある』と話したことがある。赤色地帯は我々の主陣地であり、守り抜かなければならない。黒色地帯では主に剣を見せ、その地盤を大きく圧縮させなければならない。そして灰色地帯では大いに気勢を上げて奪い合い、赤色地帯に転換させなければならない」

洪振快氏は、習近平の策略について「扶紅、打黒、争灰」(赤を守り、黒を打ちのめし、灰を奪う)だと指摘し、「敵」「我」「友」の三つの陣営に分け、それぞれに対応した戦略を取っていると分析する。共産党の近年のメディア統制もこの戦略に基づいており、この講話で確認されたというのが洪氏の見方だ。反体制的な言論(黒色)は「敵」とみて徹底的に潰し、あいまいな「灰色」言論については「友」にして「我」に引き入れようとしているのだ。

閉ざされた権力と社会と対話の道

炎黄春秋の「死」により、体制内知識人は声を出すことがより厳しくなった。同誌は、体制内改革派の立場から、大躍進や文革など過去の独裁政治の誤りを教訓として共産党に対して建設的な道は何なのか、と提示し続けた。習近平はこの体制内知識人の建設的な意見を「異論」と思い込み、耳障りになったのだろう。その結果、炎黄春秋を「死」に至らせた。

しかしこれによって改革派知識人たちの中で、「改良」の道では中国を変えることはできないと痛感し、より過激な「革命」の道が必要になるという議論が活発になることも予想される。「革命」の道とは体制転換である。もはや中国は、「権力・体制」側と「民間・社会」側が対話するルートは閉ざされつつあるという危機的な状態に陥っているのだ。

だから改革派知識人は危機感を強めている。一方的な炎黄春秋の接収に抗議する知識人は「『炎黄春秋』違法占領に関する関係部門への呼び掛け」と題した公開書簡を公表した。

ここにはこう記された。「『炎黄春秋』の歴史は、中国の知識人たちがたどった運命の現実を映し出したものだ」。同誌の廃刊の方向は変わらないだろうが、改革派知識人たちが今後、炎黄春秋の廃刊という「一つの時代の終わり」にどう向き合い、いかに闘いを続けるかという問題は、中国の近い将来を占う上で重要なポイントになり続ける。